浮世絵の起源 — 岩佐又兵衛と初期の風俗画
17 世紀前半、 京都で岩佐又兵衛が描いた「浮世」 の風俗画から、 江戸初期の菱川師宣による墨摺絵の量産へ。 浮世絵という語がまだ「浮世絵」 でなかった時代の、 生まれかけの美意識を辿る。
「浮世」 という言葉
浮世 (うきよ) はもともと仏教語の 「憂世」 — 憂いに満ちたこの世 — が原義だった。 中世までは厭世的な言葉。 それが 17 世紀に入ると 「浮かれた世」、 快楽と流行の現在 を意味する明るい語へと反転する。
この意味反転の背景には、 戦国期を終えて江戸幕府が開かれ、 100 年近い平和が訪れたことがある。 京・大坂・江戸に町人文化が花開き、 「今を楽しむ」 感覚が肯定的に受け入れられる社会になった。 浮世絵とは、 その 「今」 を絵にしたもの。
岩佐又兵衛 — 「浮世絵の祖」 と呼ばれる画家
岩佐又兵衛 (1578-1650) は、 荒木村重の子として生まれた武家出身の画家。 京都で活動し、 やがて福井藩 (松平家) に招かれ、 晩年は江戸で没した。
又兵衛は狩野派の技法を学びながらも、 町人風俗を屏風絵として大画面で描いた 点が革新的。 代表作 《洛中洛外図屏風 (舟木本)》 は京都の街並み・祭・遊興を一枚の屏風に凝縮した傑作。
- 六曲一双の屏風いっぱいに、 2,700 人以上の人物 が描き込まれている
- 祇園祭の山鉾、 四条河原の芝居小屋、 遊里の女、 喧嘩する武士、 物売りなど
- 単なる名所絵ではなく、 「人々の日常」 そのもの が主題
これがのちの浮世絵の「風俗画としての性格」 を先取りしていた。 又兵衛はまだ「浮世絵師」 と呼ばれてはいない。 だが 20 世紀の美術史家がその祖と位置付けた。
初期風俗画の主題
17 世紀前半の風俗画は、 大きく分けて 3 つの主題群を持っていた。
1. 遊里 (ゆうり) の絵
京の島原、 大坂の新町、 のちの江戸吉原など、 公認遊郭の情景。 遊女・禿・客・座敷の様子が描かれた。 現代の目には風俗店の広告のように見えるが、 当時は 「都市文化の頂点」 として観賞対象となっていた。
2. 芝居の絵
歌舞伎はまだ女歌舞伎 (出雲阿国の系譜) → 若衆歌舞伎 → 野郎歌舞伎 と急速に変化していた時代。 四条河原・堺町の芝居小屋の熱気を描いた作品が多い。
3. 職人・物売りの絵
「洛中洛外図」 のように、 町中の職人・行商人・武士・僧侶を並列に描き、 社会階層の総覧的な視覚 を提供した。
菱川師宣 — 「見返り美人」 と墨摺絵の量産
17 世紀後半、 江戸で 菱川師宣 (ひしかわ もろのぶ、 1618?-1694) が登場する。 師宣が浮世絵史上で決定的だったのは 2 点。
- 屏風絵から版画へ — 一点物の肉筆画を、 木版印刷で量産できる形に持ち込んだ
- 「絵本」 「一枚絵」 という媒体 — 挿絵本・単独の版画として、 町人が買える価格で流通させた
代表作 《見返り美人図》 は肉筆画だが、 師宣の版本は江戸で大ヒットし、 「浮世絵の量産」 という発想を確立。 これ以降、 浮世絵 = 版画 というイメージが強くなる (肉筆浮世絵は続くが、 主流は版画に)。
まだこの時期は 墨摺絵 (すみずりえ)、 つまり黒一色の版画。 手作業で朱・緑・黄などを塗る 筆彩 が加えられることもあったが、 完全な多色刷りはまだ 100 年後の錦絵誕生を待つ。
「浮世絵」 という呼称の定着
「浮世絵」 という語が定着するのは、 17 世紀末〜18 世紀初頭。 それまでは「風俗画」 「町絵」 「絵草紙」 など多様な呼び方があった。 師宣の系譜が「浮世を描く絵」 と自称・他称されるようになり、 やがて 画派・技法・主題を横断するジャンル名 として確立していく。
同時期、 京都では 西川祐信 (1671-1750) が肉筆美人画で評価を得て、 江戸の師宣系と京の祐信系の 2 大源流ができる。 これが 18 世紀半ばの 鈴木春信 による錦絵 (多色刷り) の誕生 を準備することになる。
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浮世絵はまだ生まれかけていた。 主題は決まった (風俗)、 媒体も決まった (版画)。 残る大きな革新は 色 だった。 次の記事では、 1765 年、 鈴木春信が実現した錦絵 — つまり浮世絵の真の誕生 — の物語に入る。