勝川春章と鳥居清長 — 錦絵展開期の 2 大絵師
1770 年代-1780 年代、 春信の死後の錦絵は勝川春章と鳥居清長という 2 人の絵師によって新しい段階に進む。 春章は 「似顔役者絵」 で写楽以前に個人の顔を描いた革新者、 清長は 「八頭身の背高美人」 で春信の少女的抒情から一転した新しい美人像を作った。 錦絵の技術が主題別に成熟する 20 年を辿る。
春信の死後、 錦絵はどう展開したか
1770 年、 錦絵の父 鈴木春信が急死。 わずか 5 年の活動期間だったが、 春信は錦絵の技術・中判規格・抒情的な美人画・見立て絵という枠組みを残していた。
その後の 1770-1780 年代、 錦絵は 2 つの方向に展開する:
- 役者絵の錦絵化 — 勝川春章。 鳥居派の様式化された役者絵に対して、 個人の顔立ちを描く「似顔役者絵」
- 美人画の新様式 — 鳥居清長。 春信の少女的な線から一転して、 八頭身の背高美人という新しい理想像
この 2 人が、 1790 年代の歌麿・写楽の時代への橋渡しをする。
勝川春章 (かつかわ しゅんしょう、 1726-1793)
生涯
- 1726 年、 江戸生まれ (諸説あり)
- 若い頃、 宮川長春 (みやがわ ちょうしゅん) 門下で肉筆美人画を学ぶ
- のち 勝宮川派 から独立、 勝川 の姓を名乗る
- 1760 年代半ば、 錦絵の登場に応じて版画に本格参入
- 1793 年、 68 歳で死去
春章の革新 — 「似顔役者絵」
それまで役者絵は鳥居派の独占だった。 鳥居派の役者絵は「瓢箪足蚯蚓描き」 で 様式化された荒事の姿を描く。 個人の顔立ちよりも演目の型を優先していた。
春章はここに 「似顔 (にがお)」 — つまり実際の役者の顔立ちを持ち込む。
- 眉・目・鼻・口の個人差を丁寧に描く
- 隈取り (くまどり) や決めポーズだけでなく、 役者本人が識別できる顔
- 役者ファンにとっては「贔屓の役者そっくり」 と分かる肖像画
これは 20 年後の東洲斎写楽の役者大首絵の直接の先駆。 春章がいなければ、 1794 年の写楽の衝撃は成立しなかった。
代表シリーズ
《東扇 (あずま おうぎ)》 シリーズ (1770 年代)
扇形の画面に役者の似顔を配したシリーズ。 中判ならぬ扇面形式での意欲作。 春章の似顔役者絵の代表。
《絵本舞台扇 (えほん ぶたい おうぎ)》 (1770、 春章・文調 共作)
役者絵の版本 (絵本)。 一柳斎文調 (ぶんちょう) との合作で、 江戸三座の役者の似顔を集大成。 これで春章は江戸の役者絵市場に一気に食い込む。
《相撲絵 (すもうえ)》 (1780 年代)
歌舞伎役者絵と並んで、 春章は相撲力士絵にも進出。 個々の力士の顔と体格を似顔で描く。 これも「似顔ジャンル」 の拡張。
春章工房と葛飾北斎
春章の工房からは多くの弟子が育つ:
- 勝川春朗 (しゅんろう) — のちの 葛飾北斎。 若き日の北斎は春章門下で「勝川春朗」 として役者絵を描いていた
- 勝川春英・春好 — 春章の直弟子、 役者絵を継承
北斎が春章門下だったという事実は、 のちの《富嶽三十六景》 の造形感覚を理解する上で重要。 北斎は役者絵の「顔の描き分け」 の訓練を、 春章のもとで積んでいた。
鳥居清長 (とりい きよなが、 1752-1815)
鳥居派 4 代目としての位置
鳥居清長は鳥居派の 4 代目当主。 前記事で扱ったように、 鳥居派は役者絵を専門とする画派だった。 だが清長は美人画にも進出した稀有な当主で、 1780 年代の錦絵美人画を代表する絵師となる。
- 1752 年、 江戸生まれ
- 1780 年頃、 3 代 清倍の跡を継いで鳥居派当主
- 1780-1790 年代、 美人画の絶頂期
- 1815 年、 63 歳で死去
「八頭身の背高美人」 — 新しい理想像
清長の美人画は、 春信の少女的な体形から一転する:
- 身長が高い — 八頭身に近いプロポーション
- 顔は小さく整った卵形
- 手足が長い
- 群像 (複数の女性) で構成される
この身体表現は、 現代のモデル体型に近い。 春信の絵の中の少女は少女漫画的だが、 清長の女性は大人の女性の理想像。 これは 1780 年代の江戸の美意識の成熟を反映する。
大判横大判の採用
清長は大判 (縦約 39cm) と大判横大判 (縦約 39 × 横 55cm) を積極的に使う。 中判が主流だった錦絵に、 大画面の迫力を持ち込む。
大画面ゆえに:
- 群像描写が可能 (5-6 人の女性を並べる)
- 背景の風景を大きく描ける (庭・川・浴場)
- 豪華な着物の柄を細部まで表現
これで清長の美人画は壁掛けの装飾画として、 上流町人・武家に受ける水準になる。
代表作
《美南見十二候 (みなみ じゅうにこう)》 シリーズ (1784)
江戸の岡場所 (私娼窟) の 12 か月を描いた大判シリーズ。 清長の群像美人画の代表。 春夏秋冬の情景と、 遊女・客・下女の関係を丁寧に描く。
《当世遊里美人合 (とうせい ゆうり びじん あわせ)》 (1783)
現代 (=当時の) の遊里の美人を集めた大判シリーズ。 清長様式の完成形。
《社頭の見合 (しゃとう の みあい)》 (1785 頃)
神社の境内で、 若い男女が「見合い」 をする情景。 江戸の恋愛と社交の場を主題化。
《風俗東の錦 (ふうぞく あずま の にしき)》 (1783-84)
江戸の四季の風俗を大判横大判で描いた大作シリーズ。 清長の絶頂期を代表する。
清長の限界と後継
清長の八頭身美人は 1780 年代を席巻したが、 1790 年頃には歌麿の大首絵に主役を譲る。 歌麿は清長の全身の理想美ではなく、 顔と上半身の心理を焦点にした。 これで美人画の主流は再び中判・大首絵に戻る。
清長自身は鳥居派当主として役者絵の仕事に戻るが、 美人画の絵師としてのピークは 1780 年代の 10 年間だった。
春章 vs 清長 — 対照的な役割
同時期に活動した 2 人の絵師の対比:
| 要素 | 勝川春章 | 鳥居清長 |
|---|---|---|
| 生没 | 1726-1793 | 1752-1815 |
| 主ジャンル | 役者絵 | 美人画 |
| 派 | 勝川派 (新設) | 鳥居派 (4 代目) |
| 判型 | 中判・扇面 | 大判・横大判 |
| 革新 | 似顔役者絵 | 八頭身美人 |
| 継承 | 北斎 (若い頃) | 歌麿 (次世代) |
春章が個人の顔を描き始め、 清長が理想の身体を描いた。 この 2 つが 1790 年代の歌麿の大首美人画・写楽の役者大首絵に統合されていく。
1770-1780 年代 — 錦絵の成熟期
春信の錦絵誕生 (1765) から 25 年、 錦絵は:
- 技術 — 春信で完成した多色摺技法が定着
- 判型 — 中判 (春信) → 大判 (清長) と拡張
- 主題 — 美人画 (春信・清長)・役者絵 (春章)・見立絵の 3 大ジャンルが確立
- 市場 — 江戸の絵草紙屋が全域に増加、 版元が競合
- 鑑賞層 — 町人だけでなく武家・僧侶・地方の富裕層まで
「錦絵の黄金期」 は 1790 年代の歌麿・写楽・北斎の時代と言われるが、 その基盤は 1770-1780 年代の春章・清長の 20 年で作られていた。
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