種田山頭火 — 「分け入っても 分け入っても 青い山」 の旅の俳人

1882 年、 山口県防府の造り酒屋に生まれた種田山頭火は、 母の自死、 事業の失敗、 妻子との別離を経て 1925 年に出家、 以後 15 年間、 網代笠と鉢の姿で日本各地を歩き続けた。 8 万里の乞食行脚のなかで、 自由律俳句の代表作「分け入っても」 「うしろすがたの」 を残し、 1940 年に 58 歳で没した男の物語。

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防府の造り酒屋に生まれる (1882-1902)

種田山頭火 (たねだ さんとうか、 1882-1940)、 本名 正一 (しょういち) は、 明治 15 年 (1882) 12 月 3 日、 山口県佐波郡西佐波令村 (現在の防府市大字八王子) に生まれた。 生家は造り酒屋 種田酒造 で、 地元では豊かな家。

だが山頭火の幼少期は既に暗い影を落としていた。 明治 25 年 (1892)、 山頭火 10 歳のとき、 母 フサ が自宅の井戸に投身自殺。 母 33 歳、 山頭火はこの光景を目撃したという (諸説あり)。 この事件は山頭火の生涯にわたる原体験となる。

以後、 山頭火は父 竹治郎に育てられるが、 父は放蕩・女性関係で家業を傾け、 山頭火の少年期は不安定な家庭のなかで過ぎた。

早稲田大学中退と結婚 (1902-1913)

明治 35 年 (1902)、 20 歳の山頭火は上京し、 早稲田大学高等予科文学科に入学。 だが在学中に神経衰弱を病み、 明治 37 年 (1904) に中退。 郷里防府に帰る。

明治 39 年 (1906)、 父の勧めで種田酒造の経営に参加。 明治 42 年 (1909)、 27 歳で 佐藤サキノ と結婚。 翌年、 長男 が誕生。 一時期は普通の造り酒屋の若旦那の生活を送っていた。

だが明治 44 年 (1911)、 種田酒造は事業に失敗して廃業。 父の放蕩と山頭火自身の経営能力の欠如が原因。 山頭火一家は防府を離れる。

熊本での日々と離婚 (1913-1924)

大正 2 年 (1913)、 山頭火一家は熊本に移住。 妻の実家に近い場所で、 額縁店 雅楽多 (がらくた) を開く。 だが商売は振るわず、 山頭火は次第に酒におぼれるようになる。

このころ山頭火は 『層雲』 (荻原井泉水主宰の自由律俳誌) に投稿を始める。 井泉水はまだ 20 代の山頭火の才能を認め、 積極的に掲載した。 山頭火は俳号「山頭火」 を選ぶ。 「山の頭上の火」 の意で、 六甲山の山肌に火が見える光景から着想したとされる。

大正 5 年 (1916)、 父 竹治郎が愛人と博多で死去。 大正 8 年 (1919)、 弟 二郎が自殺。 家族の連鎖する不幸が続く。

大正 9 年 (1920)、 山頭火は妻サキノと協議離婚。 息子健はサキノが引き取り、 山頭火は一人になる。 このころの山頭火はアルコール中毒に近い状態 で、 熊本の街を彷徨いながら、 就職・生活の再建に何度も失敗する。

出家と行乞の旅 (1924-1940)

大正 13 年 (1924) 12 月、 山頭火は熊本の市電を止める事件を起こす (酒に酔って線路に飛び出したとも、 自殺未遂だったとも言われる)。 このとき偶然、 曹洞宗の禅寺 報恩寺 の望月義庵和尚に救われ、 出家する。 42 歳。

大正 14 年 (1925) 2 月、 熊本県鹿本郡の 味取観音堂 の堂守となる。 だが定住は続かず、 大正 15 年 (1926) 4 月、 山頭火は 網代笠、 墨染めの衣、 鉄鉢 の姿で、 行乞 (ぎょうこつ = 乞食僧としての托鉢行脚) の旅に出る。

以後、 山頭火は 昭和 15 年 (1940) の死まで 15 年間、 断続的に日本各地を歩き続けた。 北は東北、 南は九州、 西は山陰まで。 総行程は 8 万里 とも言われる。

行乞と句作の生活

山頭火の日常は、 現代の私たちには想像もつかない過酷なもの:

  • 毎朝、 網代笠と鉢を手に、 家々を訪ねて 一銭・二銭の喜捨 をもらう
  • 喜捨は日々の食費・宿代・酒代・原稿料に消える (酒代がしばしば食費を上回る)
  • 夜は木賃宿・寺・野宿
  • 日記と俳句を書き続ける (『行乞記』 『三八九日記』 など、 現代に残る膨大な日記)

「山頭火の凄みは、 これを 15 年続けた」 ということ。 芭蕉の旅が 「文学的旅行」 だったのに対し、 山頭火の旅は 文字通りの乞食生活。 明治維新後の近代社会で、 前近代の乞食僧の姿で日本を歩き続けた異例の詩人。

山頭火の代表句

分け入っても 分け入っても 青い山 (1926)

行乞の旅を始めた最初期の句。 大正 15 年 5 月、 熊本から出発して間もない頃。

  • 分け入っても — 山道を分けて進む
  • 分け入っても — さらに進む
  • 青い山 — なお青い山が続く

「分け入っても」 の反復が、 どこまでも続く山道の反復 を音のリズムとして刻む。 5-6-5 の 16 音、 有季 (青い山を夏の季語とすれば)、 準定型。 山頭火の代表句として最も広く知られる。

うしろすがたの しぐれてゆくか (1931)

  • うしろすがた — 誰かの後ろ姿 (自分の後ろ姿とも読める)
  • しぐれてゆく — 時雨 (冬の雨) のなかを去ってゆく
  • — 終助詞、 詠嘆

5-7-4 = 16 音の自由律。 「か」 の余韻が、 秋の終わり・冬の始まりの寂寥感を残す。 山頭火の代表句のもうひとつ。

鉄鉢の中へも 霰 (1934)

  • 鉄鉢 — 托鉢僧の鉢
  • の中へも — その中にも
  • — 冬の霰 (あられ)

5-3-2 = 10 音、 極端に短い自由律。 托鉢の鉢を差し出したところ、 米や銭ではなく が入る。 冬の寒さと、 行乞の厳しさと、 それを受け入れる静けさ。 山頭火の到達点の一つ。

雪へ雪ふる しづけさにをる (1934)

  • 雪へ雪 — 積もった雪の上に、 さらに雪が降る
  • ふる — 降る
  • しづけさにをる — 静けさのなかにいる

5-3-6 = 14 音。 冬の山中の一軒家で、 雪が音もなく降り続ける光景。 「しづけさにをる」 の「をる」 (居る) が、 詠み手自身の存在を静かに刻む。

まっすぐな道でさみしい (1934)

  • まっすぐな道 — 見渡す限り一直線の道
  • — 場所を示す助詞
  • さみしい — 淋しい

3-6-4 = 13 音。 自由律俳句のなかで最も 短さと日常語で感情を刻む 山頭火の姿を示す句。 「さみしい」 という口語をそのまま置く大胆さ。

松山「一草庵」 での死 (1940)

昭和 14 年 (1939)、 57 歳の山頭火は四国を歩き、 松山にたどり着く。 松山の俳友 高橋一洵 らの援助で、 松山市御幸山の麓の 一草庵 (いっそうあん) に定住。 15 年の行脚に一応の区切りをつける。

昭和 15 年 (1940) 10 月 11 日 の夜、 山頭火は一草庵で友人たちと酒を飲みながら句会を開いた後、 眠るように没した。 死因は脳溢血。 58 歳。

生前の最後の句集 『鴉』 (からす、 1940) は死の直前に自ら編んだ。 遺句とされるもののひとつ:

「もりもりもりあがる雲へ歩む」 (もくもくと湧き上がる雲へ向かって歩んでゆく)

山頭火の遺産

山頭火が生きているうちは、 中央俳壇からは「奇人・破滅型の詩人」 と見られる部分もあった。 だが戦後、 特に 1960 年代以降、 大きな再評価が起きる:

  • 口語俳句・自由律俳句の代表 として、 現代俳句の重要な系譜に位置付けられた
  • 禅と俳句の結合 の実例として、 海外の禅仏教研究者にも読まれるようになる
  • 人生と詩の一致 — 「行乞の生活そのものが俳句」 という姿勢が、 現代のライフスタイル系俳人にも影響を与える
  • 『山頭火日記』 の出版により、 15 年間の行脚の内面が詳細に読めるようになった

現代の日本人が「自由律俳句」 と聞いてまず思い浮かべるのは、 山頭火の「分け入っても」。 これは尾崎放哉と並んで、 虚子の花鳥諷詠に対する自由律の代表 として、 20 世紀俳句史の重要な柱となっている。

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山頭火が「動」 の自由律 (歩き続ける俳人) なら、 同時代のもう一人の自由律俳人 尾崎放哉 は「静」 の自由律 (一箇所に留まる俳人) だった。 病と孤独のなかで、 「咳をしても一人」 という究極の孤独の句を残した放哉の 41 年の生涯を、 次の記事で辿る。

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