中世〜近世前期 — ディオファントス・アラビア数学・フィボナッチ・関孝和
アルキメデス以降の 1500 年。 3 世紀アレクサンドリアの ディオファントス 「算術」 が 代数の萌芽と 「84 歳の墓碑銘」 を残し、 9 世紀イスラム世界の アル・フワーリズミー 「代数学」 が algebra の語源に。 12 世紀のフィボナッチ 「算盤の書」 (1202) が インド・アラビア数字を西欧に定着させる。 そして 鎖国日本で 独立に世界水準の 数学を築いた 関孝和 (1640 頃-1708) — 行列式・ベルヌーイ数を ヨーロッパより先に発見した 「算聖」 の 系譜まで。
「ヨーロッパの空白」 を 埋めた者たち
前記事 [古代ギリシャの数学] の アルキメデス以降、 ヨーロッパの数学は 1500 年近い停滞 に入る。 だが 数学は 別の場所で 発展を続けた:
- 3 世紀のアレクサンドリア — ディオファントスの代数
- 9 世紀のバグダッド — イスラム世界の 保存と発展
- 12 世紀のイタリア — フィボナッチによる 西欧への再導入
- 17 世紀の日本 — 関孝和による 独立展開
本記事では、 この 1500 年の 「非ヨーロッパ数学史」 と、 それが 近代への橋渡しとなる過程を辿る。
ディオファントス — 「代数学の父」
ディオファントス (Διόφαντος、 AD 200 頃-284 頃) は、 アレクサンドリアで活動した 古代ギリシャ最後期 の数学者。 著書 [算術 (Ἀριθμητικά)] 13 巻 (現存は 10 巻) は、 整数解を求める方程式論 の古典であり、 「代数学の父」 と称される。
生涯の情報は ほぼゼロだが、 [ギリシャ詞華集] に収録された 墓碑銘の謎 が伝わる:
神は彼の生涯の 1/6 を少年期として与え、 その次の 1/12 で青春を彩り、 さらに 1/7 で結婚を許した。 結婚後 5 年で息子を授かったが、 父の半分の年齢で息子は世を去り、 その 4 年後に父も世を去った。
方程式にすると x/6 + x/12 + x/7 + 5 + x/2 + 4 = x、 解は x = 84。 84 歳で没したことになる。
記号代数の 萌芽
ディオファントスは、 古代ギリシャ数学では珍しく、 記号 (略号) を使った代数表記を導入した:
- ς — 未知数 (現代の x)
- Δ^Υ — x の二乗
- Κ^Υ — x の三乗
- ↑ — マイナス (負の係数)
- M — 定数項
これは 「修辞代数 (言葉だけで式を書く)」 から 「省略代数 (略号を使う)」 への 重要な一歩で、 近代代数の 記号化 (ヴィエト、 デカルト) の 遠い先駆。
ディオファントス方程式
整数 (または有理数) 解のみを求める 多項式方程式。 x² + y² = z² (ピタゴラス数)、 x³ + y³ = z³ (フェルマー最終定理 n=3) など。 現代数論の 中心的な対象。
「算術」 と フェルマーの 走り書き
[算術] は 1621 年、 バシェ・ド・メジリアクの ギリシャ語・ラテン語対訳版 で ヨーロッパに広まる。 フェルマーが読んだのは この版。 「正方形を 二つの正方形の和に分けよ」 (第 2 巻第 8 問) という問題こそが、 後に フェルマー最終定理 の 発端となる 余白の走り書き の場所である。
1000 年以上前の書物の余白から、 現代数学の 中心的問題が生まれた。
アラビア数学 — バグダッドの 「知恵の家」
8-9 世紀、 アッバース朝カリフの バグダッドの 「知恵の家 (バイト・アル・ヒクマ)」 で、 ギリシャ・インド・ペルシャの数学が 総合された。 中心人物は アル・フワーリズミー (780 頃-850 頃)。
名前が言葉になった 2 つの用語
- アルゴリズム (algorithm) — アル・フワーリズミーの 名前のラテン語化 から
- 代数 (algebra) — 彼の著書 [アル・ジャブル (al-Jabr)] ([Kitab al-Jabr wa al-Muqabala]、 830 年頃) の 書名 から
「algorithm」 と 「algebra」 という 現代数学・計算科学の 中心用語が、 一人の 9 世紀のアラブ人数学者の 名前と著書から 派生している。 これほど 深く数学に埋め込まれた 人名はない。
アラビア数学の 貢献
- インド数字と ゼロ の受容と伝達 (インドから アラビアへ、 アラビアから 西欧へ)
- 二次方程式の 一般解法
- 三角法 の発展 (アル・トゥースィー、 アル・カーシー)
- 代数記号化 の先駆
主要な数学者:
- アル・フワーリズミー (9 世紀) — 代数・アルゴリズムの祖
- アル・カラジー (11 世紀) — 多項式代数
- オマル・ハイヤーム (11-12 世紀) — 三次方程式の 幾何解法、 「ルバイヤート」 の詩人
- アル・トゥースィー (13 世紀) — 三角法
フィボナッチ — 「算盤の書」 と ゼロの西欧伝来
レオナルド・ピサーノ、 通称 フィボナッチ (Fibonacci、 1170 頃-1250 頃) は、 イタリア・ピサ出身の数学者。 著書 [算盤の書 (Liber Abaci)] (1202) を通じて、 インド・アラビア数字と 十進位取り記数法を 西欧に決定的に普及 させた。
経歴
- 1170 年頃、 ピサに生まれる。 父グリエルモは ピサの商人・税関役人
- 少年期は 父の任地 ブージー (現アルジェリア・ベジャイア) で イスラム文化圏の数学 を学ぶ
- 地中海各地 (エジプト、 シリア、 ギリシャ、 シチリア、 プロヴァンス) を 旅行して数学を吸収
- 1202 年、 32 歳頃、 [算盤の書] 完成
- 1220 年代、 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ 2 世の宮廷 で名声を得る
- 1240 年、 ピサ市が業績に対し 年金 (20 リラ) を支給 する公文書
「Fibonacci」 は 19 世紀の数学史家 ギヨーム・リブリが命名した略称。 本人は 「Leonardo Pisano (ピサのレオナルド)」 「Leonardo Bigollo (旅人レオナルド)」 などと自称した。 「Filius Bonacci (ボナッチの息子)」 が縮まって Fibonacci。
「算盤の書」 の 冒頭
「アラビア人が figure と呼ぶ 9 つの数字は 次の通り: 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2, 1。 これに 『zephirum (ゼフィルム = ゼロ、 アラビア語 sifr)』 を加えれば、 どんな数でも書けることがわかる。」
これが インド・アラビア数字 (とくにゼロ) の 西欧への 本格的紹介。 ローマ数字での「MMXXIII × CXLVII」のような乗算は 事実上不可能だが、 インド・アラビア数字なら 筆算で容易にできる。 フィボナッチの著作は 商人・職人にとっての 計算革命 だった。
ただし ローマ数字を完全に手放すには 数百年を要し、 フィレンツェの両替商組合は 1299 年に 「アラビア数字使用禁止令」 を出している (偽造の容易さを警戒)。
うさぎ問題と フィボナッチ数列
[算盤の書] 第 12 章の一問:
「一対のうさぎが 毎月新しい一対を生むとする。 生まれた一対も 2 か月目から 毎月一対を生む。 1 年後には 何対になっているか?」
数列: 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144 (漸化式 a(n+2) = a(n+1) + a(n))
隣接二項の比は 黄金比 φ = (1+√5)/2 ≈ 1.618 に収束。 自然界の植物の葉序、 松ぼっくり、 ひまわりの種配列などに 頻出。
同様の数列は インドのピンガラ (BC 2 世紀)、 ヴィラハンカ (6 世紀)、 ヘマチャンドラ (12 世紀) らによって 韻律理論 で既に研究されていた。 「フィボナッチ数列」 は 欧米中心的な呼称。
関孝和 — 鎖国日本の 「算聖」
関孝和 (せき たかかず、 1640 頃-1708) は、 江戸時代前期の日本の数学者。 独自に発展した 和算 (わさん) を 世界水準にまで押し上げた 人物。 「算聖 (さんせい)」 と 尊称される。
鎖国下の 独立展開
関の生きた時代は 鎖国体制下。 西洋数学 (デカルト・フェルマー・ニュートン・ライプニッツの仕事) は 伝来していなかった。 彼は 中国数学 (「算学啓蒙」「楊輝算法」など 宋元数学) を出発点としつつ、 それを大きく超える 独自の数学を展開した。
世界に類例の少ない 「独立発明」 の事例。 ヨーロッパの ニュートン・ライプニッツの発見と、 完全に切り離された環境で、 同水準の 数学が生まれた。
主な業績と ヨーロッパとの並行
| 業績 | 関の年 | ヨーロッパ |
|---|---|---|
| 行列式の発見 | 1683 (解伏題之法) | ライプニッツ 1693 (ロピタル宛書簡) |
| ベルヌーイ数 | 括要算法 | ヤコブ・ベルヌーイ 1713 (推測術) |
| 円周率の計算 (小数第 11 位まで、 正 131072 角形) | ヨーロッパの同精度計算と並行 | |
| ニュートン法類似の 反復近似 | ニュートン 1669 頃 |
関は 10 年〜30 年、 西洋より早い か 並行して 発見していたことになる。
点竄術 (てんざんじゅつ) — 傍書法
関が体系化した 未知数を文字で表す記号代数。 中国の天元術 (一元のみ扱える) を 多変数に拡張:
- 天元 — 第一の未知数 (甲)
- 人元 — 第二の未知数 (乙)
- 地元 — 第三の未知数 (丙)
- 物元 — 第四の未知数 (丁)
これにより、 和算は本格的な 多変数代数 を扱えるようになった。
主要著作
- [発微算法] (1674) — 沢口一之 [古今算法記] の 遺題への解答集。 点竄術を披露
- [解伏題之法] — 行列式の発見
- [括要算法] (死後 1712) — 弟子 荒木村英らによる遺稿集成。 円周率・ベルヌーイ数
- [大成算経] — 関・建部賢弘・建部賢明による 集大成
和算の 独自文化 — 遺題と 算額
遺題 (いだい) の文化
江戸時代の和算には 「遺題」 の独自文化があった。 算法書の最後に 未解決問題を提示 し、 後の数学者にチャレンジさせる。 関の [発微算法] も 沢口一之の遺題 15 問への回答集だった。 問題駆動型の 学問伝承システム。
算額 (さんがく)
和算家・愛好家は、 解けた問題を 絵馬のような額に書いて 神社・寺に奉納 した。 これを 算額 と呼ぶ。
- 庶民・武士・町人が 広く参加
- 江戸時代を通じて 全国の神社に 数千の算額 が奉納された
- 現代も 数百枚が現存
- 世界に類例のない 「数学の民衆参加文化」
「数学は 神社に奉納するもの」 という 日本独自の 発想。 西洋の アカデミー中心主義とは 対照的。
建部賢弘 — 関の弟子と 円理の発展
建部賢弘 (たけべ かたひろ、 1664-1739) は 関孝和の高弟。 円理 (円周率・円積・弧長の研究) を発展させ、 無限級数展開 を独立に得た。 ニュートン・ライプニッツ・グレゴリー らと 並行する 業績。
建部を通じて、 関の 業績は 和算の 関流 として 継承される。 明治維新まで、 日本の数学界の 主流を成した。
明治維新と 和算の 終焉
明治維新 (1868) 後、 西洋数学の導入 とともに 和算は 衰退する。 明治 5 年 (1872) の 「学制」 で、 学校数学は 西洋式に統一。 和算家の多くは 転業し、 一部は 西洋数学の 教師となる。
しかし 和算の遺産は 忘れられず:
- 藤原松三郎、 平山諦、 佐藤賢一、 上野健爾、 高瀬正仁 らの研究で 和算の 世界水準性が確立
- 2008 年、 [関孝和全集] (岩波書店) 刊行
- 算額の 文化財的保護
「独立に発明された 世界水準の数学」 として、 現代の 数学史の中に 再定位されている。
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アルキメデス以降の 1500 年 — ディオファントス、 アラビア数学、 フィボナッチ、 関孝和 — を辿った。 次記事では、 17 世紀の科学革命 に入る。 デカルト (1596-1650) が 座標幾何 で代数と幾何を統合し、 フェルマー (1607-1665) が [算術] の余白に 記号を書き残す — 数学が 一気に近代化する 「科学革命」 の 前半へ。