与謝蕪村 — 画家としての俳人、 絵画的な俳句の世界
1716 年、 摂津国毛馬に生まれた与謝蕪村は、 江戸で俳諧を、 京都で南画を学び、 生涯を通じて画家と俳人を両立させた。 蕉風復興を掲げつつも、 芭蕉とはまったく違う「絵画的で明晰な」 俳句の世界を開き、 「菜の花や 月は東に 日は西に」 のような映像的な傑作を残した。
芭蕉から半世紀の空白
松尾芭蕉が 1694 年に没して以降、 18 世紀前半の俳諧界は 蕉門十哲の分裂と衰退 の時期。 各地の弟子筋が独自の道を歩み、 蕉風の統一は失われる。 その一方で、 大衆化した「点取俳諧」 (点数を競う遊戯的な俳諧) が流行し、 俳諧の芸術性は後退したと言われる。
そのなかで、 芭蕉の没後 20 年ほど経った 1716 年に生まれた 1 人の男が、 のちに江戸中期を代表する俳人となる。 与謝蕪村 (よさ ぶそん)。
摂津国毛馬の少年時代 (1716-1735 頃)
蕪村は 享保元年 (1716)、 摂津国東成郡毛馬村 (現在の大阪市都島区毛馬町) に生まれた。 淀川沿いの田園地帯。 実名は不明で「谷口」 姓とも「与謝」 姓とも伝わる。 幼名も伝わっていない。
生家は農家だったが、 蕪村は 20 歳前後で郷里を離れる。 理由は伝わっていないが、 家庭の崩壊 (母の死・家の没落) があったとする説が有力。 蕪村は生涯にわたって故郷の毛馬村を句のなかで繰り返し想起することになる。
「春風や 堤長うして 家遠し」 (春風のなか、 淀川の堤は長く続き、 故郷の家は遠い)
江戸下向と俳諧修業 (1737-1751)
元文 2 年 (1737)、 20 歳前後の蕪村は江戸に下る。 芭蕉の孫弟子筋にあたる 早野巴人 (はやの はじん、 号 夜半亭宋阿) の門下に入り、 俳諧を学ぶ。 巴人は其角・嵐雪の門人で、 蕉風の直系。
1742 年、 巴人が没する。 蕪村は師の遺言もあってか、 江戸を離れて 東北・北関東の遊歴 に出る。 下館 (茨城)、 結城 (茨城)、 宇都宮などで俳友の家を渡り歩きながら、 芭蕉の跡 を追う。 20 代後半から 30 代前半の 10 年間、 蕪村は各地の俳友の家に長期滞在しながら、 俳諧と絵画の両方を学び続けた。
京都定住と南画の修行 (1751-)
寛延 4 年 (1751)、 36 歳の蕪村は京都に居を定める。 このあと 30 年余、 蕪村の後半生の拠点となる。 京都での蕪村の生活は 2 つの柱で回っていた。
1. 南画 (文人画) の画業
中国の明・清の文人画 に学んだ日本の絵画流派 南画 (なんが) の画家として、 蕪村は生計を立てた。 池大雅 (いけの たいが、 蕪村と並ぶ南画の巨匠) と協同して描いた 『十便十宜図』 (1771) は南画史の傑作。
蕪村の絵は、 山水画・人物画・俳画 (俳句と絵の合作) など多岐にわたる。 特に晩年の 『夜色楼台図』 (雪の京都の夜景を描いた横長の絵) は、 東洋絵画史の中でも独自の位置を占める作品。
2. 俳諧の宗匠業
京都で 夜半亭 (やはんてい) 二世を継ぎ、 弟子を集め、 俳諧の宗匠として活動。 高弟に 松村月渓 (呉春) — のちの四条派の祖 — がいる。 蕪村自身が絵と俳諧を両立させたことで、 京都の弟子たちも絵と俳諧の両立を志すようになった。
蕉風復興と「離俗論」
蕪村は生涯を通じて 芭蕉を尊敬 した。 芭蕉忌 (10 月 12 日) の集まりを毎年主催し、 芭蕉の句を模写し、 蕉風の復興を掲げた。
蕪村の俳諧理論として有名なのが 「離俗論」:
「俳諧は俗語を用いて俗を離るることを尊ぶ」
俳諧は日常の卑近な言葉を使うが、 その言葉で日常を超えた世界を作ることが尊い。 これは芭蕉の軽み と通じる思想で、 蕪村は芭蕉の後継者を自任していた。
だが実際の作風は芭蕉と大きく違う。 芭蕉が 静・侘・余情 を中心にしたのに対し、 蕪村は 動・華・映像 を中心にした。
蕪村の代表句 — 絵画的な俳句
菜の花や 月は東に 日は西に (1774 頃)
59 歳の蕪村が神戸六甲山麓を旅した際に成立したとされる (異説あり)。 蕪村の代表句。
- 一面に菜の花が咲く春の夕景
- 東の空には月が昇っている (満月に近い)
- 西の空には日が沈もうとしている
- 月と日が同じ空にある一瞬を切り取っている
これは絵画的な視野。 芭蕉の「古池や」 が 1 点の音を切り取ったのに対し、 蕪村は全景を 1 枚の絵として構成 する。 実際、 蕪村の俳画にこの光景を絵にした作品がある。
春の海 ひねもすのたり のたりかな (1763)
- ひねもす: 一日中
- のたり のたり: ゆったりとした波のオノマトペ
- 春の海が一日中ゆったり波を打っている
「のたり」 という擬態語を 2 度重ねる ことで、 波の反復とゆるやかさを 17 音の中に閉じ込めた。 春の海の全体的な気分を、 動きで捉える句。
五月雨や 大河を前に 家二軒
- 五月雨: 梅雨の長雨
- 大きな川が濁流となっている
- その河岸に 家が 2 軒 だけ立っている
芭蕉の「五月雨を あつめて早し 最上川」 と対比 される句。 芭蕉は川そのものの動きを詠んだが、 蕪村は川と家の対比 — 巨大な自然の脅威と小さな人間の営み — を絵画的に描く。 「家二軒」 の限定が効いている。
牡丹散って 打ちかさなりぬ 二三片
- 牡丹の花が散った
- その花びらが 2, 3 枚重なって落ちている
視覚の焦点を極限まで絞る。 これは西洋の静物画 (still life) に通じる集中力。 蕪村の絵画的な視野の狭・広の使い分けが見える句。
夏河を 越すうれしさよ 手に草履
- 夏の日、 浅い川を渡る
- 草履を手に持って 素足で川を渡る
- そのちょっとした嬉しさ
これは軽み の実践。 大げさな美意識を離れ、 日常のわずかな喜びを 17 音に刻む。 蕪村の中では珍しく、 芭蕉に近い「小さな発見」 の句。
蕪村と芭蕉の作風比較
| 要素 | 芭蕉 | 蕪村 |
|---|---|---|
| 中心的な美 | 静・侘・余情 | 動・華・映像 |
| 詠み方 | 1 点の凝視から余情へ | 全景の絵画的構成 |
| 色彩感 | 抑えめ、 墨絵的 | 鮮やか、 極彩色の南画的 |
| 時間感 | 一瞬から永遠へ | 反復する時間、 反復する動き |
| 場面 | 静かな山・池・岩 | 一面の花・大河・海 |
蕪村は芭蕉を尊敬しながら、 芭蕉と全く違う俳諧の道を開いた。 これは俳諧史上の分岐点として重要。 蕪村以降、 俳諧には芭蕉的な道 と 蕪村的な道 の 2 つの選択肢が並立するようになる。
夜半亭一門と絵俳一致
蕪村を中心とする夜半亭一門は、 絵と俳諧を両立させる俳画の伝統 を京都・大阪で作った。 高弟の 松村月渓 (呉春) は俳画から出発して、 四条派 (円山派の姉妹流派) の祖となる。 蕪村の影響は俳諧を超えて、 江戸中期の京都画壇全体に及んだ。
呉春の四条派 は 18 世紀末〜19 世紀の京都で主流の画派となり、 松村景文・柴田是真らを輩出。 明治期の日本画にも遺伝する。 つまり蕪村は、 俳諧史だけでなく日本絵画史でも大きな水源 になった。
大阪への帰郷と晩年
天明 3 年 (1783)、 68 歳の蕪村は京都で没する。 生涯を通じて故郷の毛馬村を懐かしんだが、 実際に帰ることはなかった。 京都の金福寺 (こんぷくじ) に葬られた。 芭蕉の墓のある大津の義仲寺に近い場所を、 蕪村も生前から希望していたという説がある。
辞世の句: 「しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり」
夜が明ける瞬間に白梅が浮かび上がる — 蕪村らしい絵画的な句。 死の直前まで、 光と色の詩人だった。
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