小林一茶 — 慈愛の俳人、 貧困と喪失のなかで詠みつづけた 65 年
1763 年、 信濃国柏原に生まれた小林一茶は、 継母との不和で 15 歳で江戸に奉公に出て、 30 年の遊歴の後に故郷に帰った。 妻や子を次々に亡くしながら 2 万句を詠み残し、 「痩せ蛙」 「われと来て」 のような、 人間・小動物への慈愛あふれる俳句を作り出した。
信濃柏原の少年時代 (1763-1777)
小林一茶 (こばやし いっさ、 1763-1828) は、 宝暦 13 年 (1763)、 信濃国水内郡柏原村 (現在の長野県上水内郡信濃町) に生まれた。 実名は 弥太郎、 のち 信之。 「一茶」 は俳号で、 一杯の茶が沁みる — つまり茶の湯にすら至らない粗末な暮らし — の意という説がある。
生家は農家。 実母 くに は一茶が 3 歳のときに死去。 8 歳で継母 さつ が来る。 継母との間に 異母弟の仙六 が生まれると、 継母は一茶を疎み、 家庭は険悪になる。 このころの一茶の孤独が、 のちの句のなかで繰り返し反響する。
「われと来て 遊べや親の ない雀」 (母のない雀よ、 私と一緒に遊ぼう — 幼い一茶が実母のない自分を雀に重ねた句)
江戸奉公と俳諧修業 (1777-1791)
安永 6 年 (1777)、 一茶 15 歳のとき、 継母との不和から江戸に奉公 に出される。 以後 30 年、 一茶は故郷に長期滞在することなく、 江戸を拠点に西日本を遊歴して過ごす。
江戸での奉公先は転々としたようで、 詳細は不明。 20 代前半には俳諧の道に踏み込み、 葛飾派 (二六庵竹阿・素丸ら) の一員として活動を始める。 葛飾派は蕉風の一流派だが、 江戸中期の点取俳諧の影響も強く、 一茶はここで基本を学びつつ、 独自の道を探し始めた。
「西国行脚」 と 30 年の遊歴 (1791-1812)
寛政 3 年 (1791) から、 一茶は 西国行脚 に出る。 松山・熊本・長崎・鹿児島など西日本の各地を巡り、 各地の俳友の家に世話になりながら俳諧を詠み続けた。 芭蕉と蕪村が旅を「作品」 として意識したのに対し、 一茶の旅は生活そのもの。 泊まる場所と食事を提供してくれる俳友のネットワークが、 一茶の生存基盤だった。
この時期の一茶の句は、 まだ独自の一茶らしさ を確立していない。 葛飾派的な句が多く、 芭蕉・蕪村の系譜のなかに位置付けられる。 だが、 30 代後半から徐々に、 一茶独自の弱者・小動物・自分自身への視線 が姿を現し始める。
故郷帰還と継母との遺産争い (1812-1815)
文化 9 年 (1812)、 50 歳の一茶は柏原に帰郷する。 父 弥五兵衛 は 1801 年に既に没しており、 遺産分割が異母弟 仙六との間で紛糾する。 一茶は父の遺言状を持ち出して、 財産の半分を主張。 3 年に及ぶ交渉の末、 文化 11 年 (1814) に和解が成立し、 一茶は柏原の家の半分を得る。
50 歳を過ぎての遺産争いは決して美談ではない。 だがこれで一茶は生涯初めて「自分の家」 を持つことになる。 30 年ぶりの定住。
結婚と家族 — 相次ぐ喪失 (1814-1827)
最初の妻 きく (1814-1823)
帰郷直後の 1814 年、 一茶は 24 歳年下の きく と結婚 (一茶 52 歳、 きく 28 歳)。 3 男 1 女に恵まれるが、 全員が幼くして病死する。
- 長男 千太郎: 1816 年生、 生後 1 ヶ月で死去
- 長女 さと: 1818 年生、 天然痘で満 1 歳で死去
- 次男 石太郎: 1820 年生、 生後数ヶ月で死去
- 三男 金三郎: 1822 年生、 半年で死去
さとの死は、 一茶の代表的な俳文 『おらが春』 (1819 年時点の日記、 死後刊) で詳しく綴られる。 有名な句:
「露の世は 露の世ながら さりながら」 (この世は露のように儚いと知ってはいるが、 それにしてもあまりに儚い — さとの死を悼んで)
そして 1823 年、 妻きく自身も 37 歳で死去。
二度目・三度目の結婚
1824 年、 一茶は 62 歳で 雪 と再婚するが、 数ヶ月で離婚。 1826 年、 64 歳で やを と三度目の結婚をし、 妊娠中の妻を残して 1827 年に大火事で家が焼ける。 一茶は焼けた土蔵に住まいながら、 翌 1828 年に息子 やた (八太郎) の誕生を見ずに 65 歳で死去。
やたはその後無事に生まれ、 生涯を柏原で全うした。 現代の小林家は、 このやたの子孫と伝わる。
一茶の作風 — 慈愛と俳諧的自嘲
一茶の作風は、 芭蕉・蕪村とも大きく違う 3 つの特徴を持つ。
1. 弱者・小動物への視線
「痩せ蛙 まけるな一茶 これにあり」 (痩せた蛙よ、 負けるな。 私 一茶がここについている — 蛙の争いを見て応援する句)
「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」 は、 弱者への共感を示す一茶の代表句。 芭蕉の蛙は音を出す存在、 蕪村の蛙は景物の一部だったが、 一茶の蛙は「私と対等の生き物」。
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」 (小さな雀たちよ、 どいてどいて、 馬が通るぞ — 幼い雀に呼びかける)
「やれ打つな 蠅が手をすり 足をする」 (叩くな、 その蝿は手をすり足をすっている — 命乞いのしぐさに見えて)
2. 徹底した俳諧的自嘲
一茶の句には自分自身をユーモラスに卑下する ものが多い。
「これがまあ ついの棲家か 雪五尺」 (50 歳過ぎでようやく帰郷した柏原の家。 これが最終的な私の住処か。 雪が 5 尺 (約 1.5m) 積もっている)
「元日や 上々吉の 浅黄空」 (元日。 上々吉の浅葱色の空 — 貧しく孤独な一茶が、 元日にすら大げさな喜びを詠むところに苦味がある)
3. 卑近な語彙と方言
一茶は俳諧の伝統的な雅語を避け、 日常の卑近な言葉・信濃方言 を積極的に使う。 「そこのけそこのけ」 「これがまあ」 「まけるな」 「やれ打つな」 — こうした呼びかけ・命令の口調が、 一茶の句を一気に身近にする。
これは俳諧の大衆化 ともいえる。 芭蕉の教養主義、 蕪村の絵画性から離れて、 誰でも読めば分かる俳句 を作ったのが一茶。 明治以降、 学校教育で一茶の句が繰り返し取り上げられるのはこのため。
2 万句 — 圧倒的な作句量
一茶が生涯に残した句は 約 2 万句 と推定される。 芭蕉の約 1,000 句、 蕪村の約 3,000 句と比べて、 圧倒的な多作。
多作の理由は 2 つ:
- 65 年の生涯を通じて日常的に詠み続けた — 一茶にとって俳句は生きる方法そのもの
- 膨大な日記・句集 (『七番日記』 『八番日記』 『おらが春』 など) を残したため散逸を免れた
現代の一茶研究は、 これらの膨大な日記から一茶の生活を細密に復元できる。 芭蕉・蕪村では困難な 「俳人の日常」 の研究 が、 一茶では可能になる。
死と、 その後の再評価
文政 10 年 (1827) 冬、 一茶の家は柏原の大火で焼失。 焼け残った土蔵に妻やをと住みながら、 文政 11 年 (1828) 11 月 19 日 に 65 歳で死去。 翌 1829 年に息子やたが誕生。
一茶の死後、 その句集は江戸の弟子筋によって刊行されたが、 明治初期までは芭蕉・蕪村ほど広く知られていなかった。 明治後期〜大正期に正岡子規・河東碧梧桐らが一茶を再評価、 「俳諧的自嘲と慈愛」 の詩人として、 芭蕉・蕪村と並ぶ江戸俳諧の三大巨匠として位置付けた。
現在では、 教科書に載る俳人としては 芭蕉 > 一茶 > 蕪村 の順で知名度が高い場合も多い。 これは一茶の句が子供にも直接届く ためで、 慈愛と自嘲の普遍性がなせる技。
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芭蕉 (17 世紀末)・蕪村 (18 世紀後半)・一茶 (19 世紀前半) の江戸俳諧の三巨匠を扱った。 だが江戸期の俳諧はやがて衰退期に入る。 1892 年、 明治の日本で 26 歳の 1 人の青年が、 古今和歌集と江戸後期俳諧を批判し、 「写生」 と「俳句」 という新しい概念で俳諧を根底から作り直す。 その青年の名は正岡子規。 次の記事へ。