山部赤人と山上憶良 — 大自然の静と、 貧窮問答の動、 対照的な万葉歌人

柿本人麻呂と並ぶ万葉集の代表歌人、 山部赤人 (やまべの あかひと) と山上憶良 (やまのうえの おくら)。 赤人は「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」 に代表される大自然を大きな声で詠む静的な歌人。 憶良は「貧窮問答歌」 に代表される社会の底辺と個の悲哀を詠む動的な歌人。 対照的な二人の生涯と作風を辿る。

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二人の位置

柿本人麻呂 (660?-724?) の少し後、 8 世紀前半に活動した二人の代表歌人が 山部赤人 (やまべの あかひと、 生没年不詳、 700-736 頃活動)山上憶良 (やまのうえの おくら、 660?-733?)

紀貫之は『古今集』 仮名序で人麻呂と赤人を「歌の聖」 として並べたが、 実は赤人と憶良の作風は正反対。 赤人が「大自然の静的な美」 を詠むなら、 憶良は「社会の底辺と個の動的な悲哀」 を詠む。 万葉集の幅広さを示す 2 人。

山部赤人 — 大自然の静を詠む

生涯

山部赤人 は 8 世紀前半、 聖武天皇の時代 (724-749) の宮廷歌人。 山部氏は下級官人層で、 赤人自身も 下級官人 として天皇の行幸に随行し、 その場での行幸歌を多数残した。

生没年不詳。 万葉集に約 50 首 (長歌 13、 短歌 37) が残る。 人麻呂に次いで多い数ではないが、 一首一首の完成度は極めて高い。

代表歌 1: 田子の浦の富士 (万葉集巻 3、 318)

「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」

  • 田子の浦ゆ — 田子の浦を通って
  • うち出でて見れば — 出て見ると
  • 真白にそ — 真っ白に
  • 富士の高嶺 — 富士山の高い峰
  • 雪は降りける — 雪が降っていた

田子の浦 (静岡県富士市の海岸) から富士山を望んだ光景。 一切の技巧を排し、 見たままを大きな声で詠む 万葉調の代表句。 現代の写真より鮮明。

長歌 (万葉集巻 3、 317) の反歌として詠まれた。 長歌は富士の壮大さを詠み込むが、 反歌のこの短歌が独立して有名になった。

代表歌 2: 若の浦の情景 (万葉集巻 6、 919)

「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴 (たづ) 鳴き渡る」

  • 若の浦 — 和歌浦 (現・和歌山市)
  • 潮満ち来れば — 潮が満ちてくると
  • 潟をなみ — 干潟がなくなるので
  • 葦辺をさして — 葦の生えた岸辺に向かって
  • 鶴鳴き渡る — 鶴が鳴きながら渡って行く

聖武天皇の行幸に随行した際、 和歌浦で詠んだ歌。 静かな海の景色と、 鶴の鳴き声 — 動きと音を最小限に絞った描写が、 逆に情景の広がりを見せる。

代表歌 3: 春の野の景 (万葉集巻 8、 1424)

「春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける」

  • 春の野 — 春の野
  • すみれ摘みに — すみれ (菫) を摘みに
  • 来し我そ — 来た私 (よ)
  • 野をなつかしみ — 野が愛おしくて
  • 一夜寝にける — 一晩寝てしまった

春の野にすみれを摘みに来た自分が、 野の心地よさに一晩そこで寝てしまった。 自然への親しみ、 都から離れて自然の中で寝る贅沢 を素直に詠む、 万葉らしい歌。

赤人の作風

  • 大自然を素朴に、 大きく詠む — 富士山、 海、 春の野、 鶴、 桜
  • 技巧を排する — 掛詞・縁語などを使わず、 見たままの言葉で刻む
  • 人間の情感を風景に溶かす — 「野をなつかしみ」 のように、 感情を自然への親しみに転化
  • 五七調のリズム — 万葉らしい朗誦的なリズム

紀貫之が『古今集』 仮名序で「赤人は人麻呂のしもたつことかたく、 人麻呂は赤人のかみたつことかたし (赤人は人麻呂の下に立つことが難しく、 人麻呂は赤人の上に立つことが難しい、 = 二人は互角)」 と讃えた通り、 万葉の頂点の一人。

山上憶良 — 社会の底辺と個の悲哀を詠む

生涯

山上憶良 は、 660 年頃生まれ、 733 年頃没。 赤人より高齢の同時代人。 出自は渡来系 の可能性が高いとされる (詳細は不明)。

720 年頃、 遣唐使として唐に渡った (推定)。 中国の儒学・仏教・文学 に深い影響を受け、 帰国後は筑前守 (九州の国司) として赴任。 大伴旅人 (大伴家持の父) と親交を結ぶ。

万葉集に長歌 11 首、 短歌約 60 首が残る。 数は多くないが、 中身の重さでは万葉集で群を抜く。

代表歌 1: 貧窮問答歌 (ひんぐうもんどうか、 万葉集巻 5、 892-893)

万葉集で最も社会的な内容の長歌。 貧しい農民の父と子の対話形式 (問答) で、 律令国家の底辺の悲惨を詠む。

長歌 (問答の一部): 「風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かき撫でて 我をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は 如何にしつつか 汝が世は渡る」

風混じり雨の降る夜、 その雨に混じって雪の降る夜は、 どうしようもなく寒いので、 塩をなめては糟湯酒を啜り、 咳き込み鼻をすする。 麻衾を被って重ね着しても寒い。 「私より貧しい人はどうしているのだろう」 という社会への視線が動く。

反歌: 「世間 (よのなか) を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」

世の中を憂鬱で恥ずかしいと思うが、 鳥ではないので飛び立って逃げることもできない。 律令国家の底辺で生きる人の閉塞感を、 短歌 1 首に凝縮する。

代表歌 2: 子を思ふ歌 (万葉集巻 5、 802-803)

「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものそ 眼交に もとな懸りて 安眠しなさぬ」 (長歌の一部)

反歌: 「銀 (しろかね) も 金 (くがね) も玉も 何せむに まされる宝 子に及 (し) かめやも」

銀も金も玉も、 何になろうか、 まさる宝は子供に及ぶだろうか。 子を最上の宝と詠む、 万葉集で最も知られた歌のひとつ。 1200 年後の現代日本人にも直接届く。

代表歌 3: 病中歌 (びょうちゅうか、 万葉集巻 6、 978)

憶良 74 歳で病床に伏した際の歌。

「士 (をのこ) やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして」

男として生まれて、 空しく終わってよいだろうか。 万世に語り継がれる名を立てずして。 死の直前の憶良の個の内省が生々しく響く。

憶良の作風

  • 社会性 — 貧窮問答歌、 病人歌など、 個の状況と社会構造を詠み込む
  • 中国古典の影響 — 儒学・仏教の思想が歌の背景に
  • 問答形式・長歌の重厚 — 万葉集の他の歌人にはない構成
  • 個の内面 — 子を思う、 死を前にする、 病に伏す — 極めて私的な情感

「万葉集の思想家」 と呼ばれる。 単に美を詠むのではなく、 人生の意味・社会の矛盾・死の重みを歌の主題にした稀有な歌人。

二人の対比

要素 山部赤人 山上憶良
生没年 8 世紀前半 660?-733?
出自 下級官人 (山部氏) 渡来系 (推定)
経歴 宮廷歌人、 行幸随行 遣唐使、 筑前守
主題 大自然 (富士・海・野) 社会 (貧窮)・個 (子・病)
技法 素朴、 五七調 問答、 長歌重厚
影響源 万葉の伝統 中国古典 (儒仏)
代表歌 田子の浦ゆ 貧窮問答、 銀も金も
位置 「歌聖」 として神格化 「思想家」 として尊敬

二人が同時代に並立していた ことが、 万葉集の幅の広さを示す。 赤人だけなら万葉は「大自然の詩」 に、 憶良だけなら「社会と思想の詩」 になっていた。 両方があるからこそ、 万葉集は日本最古の総合詩集として現代に残る。

影響と後世

赤人の影響

  • 平安の紀貫之が『古今集』 仮名序で人麻呂と並ぶ「歌の聖」 と規定
  • 万葉調の自然詩の理想として、 江戸期の賀茂真淵、 明治の正岡子規らが再評価
  • 現代日本人の富士山観に赤人の歌が刻まれている

憶良の影響

  • 平安期にはあまり評価されなかった — 古今集以降の技巧的な歌風から見れば、 憶良の重厚さは異質
  • 江戸期の契沖・賀茂真淵 が憶良の思想性を再発見
  • 明治以降、 社会性を持った歌人として近代的な評価が進む
  • 現代短歌にも「思想的な短歌」 の系譜として残る

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万葉集の編者と目される 大伴家持 (718?-785) — 人麻呂・赤人・憶良の後の世代で、 万葉集の最後を締めくくる歌人。 家持自身の歌は 473 首と全体の 1 割を占め、 越中国司として赴任した越中の景色、 家族の情、 政治的な失意 — 万葉末期の複雑な感情を詠み込んだ。 次記事では大伴家持と万葉集末期を扱う。

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