大伴家持と万葉末期 — 編者にして最後の歌人、 越中の景と政治の失意

大伴家持 (おおとも の やかもち、 718?-785) は万葉集の最終編纂者と目される人物であり、 万葉集全体の 1 割 (473 首) を自作が占める最大の歌人。 越中国司として赴任した越中の景物、 家族への情、 大伴氏一族の政治的没落 — 万葉集の最後 30 年を締めくくる歌人の生涯と作風を辿る。

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大伴家持の位置

大伴家持 (おおとも の やかもち) は、 718 年 (推定) 生まれ、 785 年 (延暦 4) 没。 万葉集の最終編纂者と最も有力視される人物にして、 収録歌 4,500 首のうち 473 首 (約 10%) を自作が占める最大の歌人。

万葉集の最後の巻 (巻 17-20) は、 家持自身の日記的な歌集 の様相を呈する。 万葉集を「大伴家持の家集」 として読むこともできるほど、 その存在感は大きい。

生涯

出自 — 名門大伴氏

大伴氏 は、 神代からの伝承を持つ武の名門。 家持の父 大伴旅人 (おおとも の たびと、 665-731) は、 太宰帥として九州赴任、 筑紫歌壇 (山上憶良らとの歌の会) を主催した歌人でもあった。

家持は父旅人が九州赴任時 (728-730) の少年期を筑紫で過ごし、 憶良ら父の同僚から学びを受けた可能性がある。

越中国司時代 (746-751)

家持 29 歳、 越中守 (現・富山県の国司) として赴任。 5 年間の在任中に約 220 首 を詠み、 これが万葉集巻 17-19 の中心となる。

越中は都 (奈良) から遠く、 家持は初めて都以外の風土に長期滞在した。 越中の海・山・雪・花・鳥 — これらを丁寧に詠み込んだ越中の歌は、 家持の作風の頂点。

都への帰還と挫折 (751 以降)

751 年、 少納言として都に戻る。 その後は右中弁・因幡守・中納言など要職を歴任するが、 大伴氏の政治的地位は徐々に低下。

天平宝字元年 (757)橘奈良麻呂の乱 で大伴氏の多数が連座、 家持も一時失脚。 その後復権はするが、 大伴氏の勢いは戻らない。

死とその後

延暦 4 年 (785) 8 月、 家持は 68 歳で没。 奇しくもその直後、 藤原種継暗殺事件が起こる。 家持は既に死んでいたが、 首謀者として死後の官位剥奪 の処分を受けた。 復権は延暦 25 年 (806) の桓武天皇死後まで待たねばならなかった。

万葉集編纂者としての家持

家持編纂説の根拠

  • 万葉集の最後の歌は家持の 「新しき年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事」 (759 年) — 家持の作品
  • 巻 17-20 は家持の日記的な配列 (時期順に自作と友人の作を並べる)
  • 全体で家持の歌が突出して多い

疑問点

  • 万葉集の全 20 巻を家持一人で編集した確たる証拠はない
  • 各巻の性格が異なりすぎる (公的な行幸歌集の巻もあれば、 東歌の巻もある)
  • 家持没後に完成したという可能性もある

現代の万葉学の主流説: 家持を最終編纂者と仮定し、 前の世代 (人麻呂の時代) の資料に、 家持自身の日記的コレクションを加えて成立

越中の代表歌

家持の越中時代 (746-751) の代表歌を見る。

越中の春 — 万葉集巻 19、 4139

「春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出でたつ乙女」

  • 春の苑 — 春の庭
  • 紅にほふ — 紅色に映える (匂うではなく色を表す万葉語)
  • 桃の花 — 桃の花
  • 下照る道 — 下まで照らす道
  • 出でたつ乙女 — (道に) 出て立つ乙女

越中の春、 紅色の桃の花が咲く庭。 その花の色が下の道まで照らし、 そこに乙女が立っている。 色彩の美しさと、 一人の乙女 — 万葉らしい素直な描写。

越中の雪 — 万葉集巻 17、 3945

「奥山の 岩に苔むし 恐 (かしこ) けど 思ふ心を いかにかもせむ」

奥山の岩に苔が生えるように、 (畏れ多いことだが) 私が思う心をどうすればよいだろう。 恋心の吐露 を、 越中の奥山の岩と苔に重ねる。

越中の海 — 万葉集巻 17、 3985

「射水川 い行き廻れる 玉くしげ 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の 匂へる時に…」 (長歌の一部)

射水川が巡る玉手箱のような二上山。 春の花が咲き、 秋の紅葉が匂う季節。 越中の代表的な景観を、 長歌で丹念に詠み込む。

家族への歌 — 万葉集巻 17、 3969

「石竹 (なでしこ) の 花見るごとに 娘子 (をとめ) らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」

なでしこの花を見るたびに、 娘たちの笑顔が思い出される。 越中の任地で、 都に残した家族への情を詠む。

家持は妻坂上大嬢 (さかのうえの おおいらつめ、 大伴坂上郎女の娘、 家持の従妹) との夫婦の歌も多く残す。 万葉集は当時の夫婦の私信の記録でもある。

政治的挫折の歌

大伴氏の危機 — 万葉集巻 20、 4465

橘奈良麻呂の乱 (757) の直前、 家持が大伴氏の一族に向けて詠んだ訓誡の長歌

「大伴の 遠つ神祖 (かんおや) の 其の名をば 大久米主 (おおくめぬし) と 負ひ持ちて 仕へし官…」 (長歌の一部)

大伴氏の遠い祖先「大久米主」 の名を負って仕えてきた官職の伝統を、 現世代の一族が引き継ぐべし、 という訓誡。 大伴氏の家風の伝承への意識が痛切。

反歌: 「剣太刀 いよよ研ぐべし 古 (いにしへ) ゆ 清 (さや) けく負ひて 来にしその名そ」

剣を研ぎ続けるように、 (大伴氏の) 昔から清らかに背負ってきた家名を、 今こそ研ぎ続けよ。 政治的失意の予感の中の家名の重み

最後の歌 — 万葉集巻 20、 4516

「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 (よごと)」

  • 新しき年の始 — 新年の始まり
  • 初春の 今日降る雪 — 立春 (初春) の今日降る雪
  • いや重け吉事 — さらに積もって欲しい、 良い事よ

天平宝字 3 年 (759) 正月 1 日、 因幡守として赴任先の因幡 (現・鳥取) で詠んだ万葉集の最終歌。 新年の雪が積もるように、 良い事が積み重なって欲しい、 という祈り。

これが万葉集の最後の歌となり、 その後の 26 年間 (785 年の家持没まで) の家持の歌は残らない。 何故家持がこれ以降の歌を万葉集に加えなかったのか、 あるいは加えたが失われたのか — 万葉学の未解決の謎。

家持の作風

1. 繊細な情感 — 万葉の力強さと平安の繊細さの中間

人麻呂・赤人・憶良の力強い万葉調から、 やや繊細で内省的な方向へ移行する過渡期の作風。 家持の後の平安の古今集の技巧的な歌風の萌芽を含む。

2. 日記的な作歌

一日の中で複数首を詠み、 それを時期順に配列する 日記的な作歌スタイル。 これは万葉集の他の歌人にはあまり見られない、 家持独自の姿勢。

3. 色彩と季節の細やかな描写

紅の桃、 白い雪、 青い海、 黄葉、 なでしこ — 家持の歌は色と季節の変化を細かく捉える。 これはのちの平安の四季の美意識に繋がる。

4. 長歌の丁寧な作り

父旅人・叔母坂上郎女・憶良らから受け継いだ長歌の技法を、 家持は丁寧に磨いた。 越中の景色を長歌で描く手法は独自の完成度。

5. 政治と歌の交錯

家持は政治家であり歌人。 大伴氏の政治的挫折と歌が分離せず、 訓誡の長歌のように、 歌が家名の伝承の手段でもあった。

万葉集の閉幕と、 平安への断絶

万葉集は 759 年の家持の歌で幕を閉じる。 その後、 150 年間の空白 が続き、 905 年の古今和歌集でようやく次の勅撰集が編纂される。 この空白期間 (奈良後期-平安初期) の歌はほぼ残らない。

なぜ空白か:

  • 和歌より漢詩 — 平安初期は嵯峨天皇の漢詩偏重の時代 (『凌雲集』 『文華秀麗集』 など漢詩集の編纂)
  • 和歌の地下化 — 貴族社会の私的な場で和歌は詠まれていたが、 公的な集としては編纂されない
  • 万葉仮名の解読困難 — 万葉集自体が読めなくなり、 のちの契沖・賀茂真淵の解読を待つ

家持の死 (785) から 120 年、 平安の紀貫之ら六歌仙の時代 (840s-900s) に和歌は復活する。

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万葉集の閉幕から 150 年、 平安時代の 905 年に古今和歌集 が編纂される。 万葉の「力強さ」 から古今の「繊細な技巧」 への大転換。 編者 紀貫之、 「六歌仙」 の在原業平・小野小町、 掛詞・縁語などの技法 — 次記事では和歌史の第二期の始まりを扱う。

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